穏やかな心で人生の終わりの時を迎えられるように

毒親とサイコパス妹というオオタ家で育った私の、事実の吐き出しです

貧乏

小学校の高学年になり、やっとうちは貧乏なんじゃないかと気づきはじめた。
服なんて3枚ほどのローテーション。
弁当のおかずも非常に少なく、一緒に食べている友達から 「おかずが少ないんじゃない?」 と言われたりした。
でも家では朝食も夕食も、ほとんどがご飯と野菜たっぷりの非常に濃い味噌汁と漬物と煮豆などの常備菜だけなので、弁当に玉子焼きが2切れ入っているだけでも良かった。

 

そのうちにフタで隠しながら食べるようになった。
ある日私が席につくのが遅かった時に、クラスメイトが私の弁当を出してフタを開けて待っていてくれたことがあった。
その日は、薄く切った蒲鉾1切れ、まくわ瓜の漬物2切れと、他は覚えてないが狭くしたおかずスペースに空き空きに入っていて、クラスメイトたちは、見ちゃいけないものを見てしまったと気まずそうにしてた。

 

父母はどちらもきょうだいが多いので、いとこも大勢いる。
うちが貧乏だったからなのか、小学生時代のお年玉は300円づつと親同士で決めていた。
正月が終わると、母親に 「無駄使いをするといけないから」 と言われ、お年玉を預けた。
しばらくして 「 あのお年玉ちょうだい」 と言ったら、 「あれは親がいとこ達にお年玉をあげたから、お前がもらえたんだ。つまりあれは親の金だ」
お年玉は母親のものになった。

 

 

中学生の時に伯母から父親は浮気をしていると聞いた。
今でいうダブル不倫で、相手の夫が怪我をしていて経済援助もしてると。


うちは貧乏だったがその頃はさらに貧乏で、私はパンツが3枚ほどしかなかった。
布地は薄汚れて黒ずみ、伸びきって薄く透けてて穴がいくつか開き、ウエストも足の付け根部分もダラダラで、伸びきったゴムを引っ張り出し結んでウエストの調整をしていた。

ゴムなんて最後にはヒモになっていたから、短くしたらお尻が入らないし、お尻が入るほど長くしたら下がってしまうのでどうしようもなかった。

そのうちに自分でゴムを入れ替えるようになった。

まだまだ子供のお尻だった私に、サイズが合わないあの大きなパンツは、もしかしたら母親のお下がりだったのかもしれない。

 

雨が降ると箪笥の私の引き出しの中にはパンツがなくなるので、軒下の物干し竿にかかっているまだ湿ってるのをはいていた。
さらに雨降りが続くと物干し竿にもないから、同じのを何日もはくことになる。
その何日もはいたのが、洗濯機に入っているのを見た母親はひどく怒った。
「こんなソースをこべりつかせたみたいにして!」
それからはパンツがない時には、母親の引き出しから見つからないようにこっそり出してはいた。
真っ白な新しい伸びてないのがたくさんあった。
洗濯された真っ白なパンツは、やはり私の引き出しには入らなかった。
妹はどんなのをはいていたのか知らないが、下着泥棒が妹のだけ盗んでいったので、普通に女の子らしいパンツだったんだろう。

 


中学では給食の牛乳は薄くてまずいから、残さなければいけないような風潮があった。
半分くらい残してる子も多く、全部飲む子はほとんどいなかったような。
でも家で牛乳は飲ませてくれなかったから、給食の牛乳はおいしくて全部飲みたかった。
このくらい飲んでもいいかな?もう少し飲んでもいいかな?と飲み進め、底から2~3cmを残念な気持ちで残していた。

給食室の掃除当番はラッキーで、給食の残りの食パンを勝手に食べていた。
友達は耳がまずいと、真ん中だけくり抜いてちょこっとだけ食べあとは捨ててた。
食パンも家で食べたことなんてないので、耳までおいしくて全部食べたかったが、ギリギリまで食べてこれも残念な気持ちで残りは捨てた。

 


中学1年の冬の一張羅は制服の上に着ていた、紺と白のボーダーのカーデガンだけだった。
自分で手洗いし毛玉を取って、正月には祖父母の家へ着て行った。
冬は寒い地域なので、すき間が多い古い実家の中では、叔母が結婚する時に置いていった古い洋服の中から、着れそうなものを選んで重ね着しまくってた。
その姿を見た母親に「なんちゅう見苦しいかっこうしとるの!」と罵られた。
何も言い返さない習慣は身に付いていた。

ある時親戚から、家族でボーリングに誘われた。
妹は小学生でちょうど修学旅行の後だったし、着て行ける服は持っていた。
嘘みたいだが中学生の私は、本当にその季節に外出できる私服を持っていなかった。

まるで我儘いって駄々をこねているような雰囲気の中で、当時流行していたスモック(紫色)を買ってもらった。
スモックはとても気に入っていて、外へ出かけられるようになった。


高校の授業料は、集金袋に入れて学校へ持って行くことになっていた。
授業料を母親に請求すると、怒ったような不貞腐れたような顔で口を尖らせ、いかにも勿体無さそうに渋々渡される。
だから学校から袋を渡されても何日も言い出せなくて、毎日顔色を伺いながら期限ぎりぎりでようやく請求していた。


実家は農家で家は大きい。
以前に 「子供の頃に親に買ってもらった文房具とか、人よりも良いもので自慢だったよね。」 と、叔母は自分の子供時代と、私も同じような子供時代を過ごしていたことを前提の話を振ってきた。
私が「うちは貧乏で・・」 と言いかけたら、叔母は話を遮り終わらせた。
田舎の質素な暮らしのなかでも実家は貧しく、友達と対等に付き合えなくて物心ついてからの子供時代は惨めだった。

しかし数年前に母親は 「何不自由なく育ててやった」と言い、開いた口が塞がらなかった。

 

 

お互いに結婚してから妹に何度か「子供の頃は貧乏だったね」 と話しかけたが、そのたびにムキになり反論された。
妹はとにかく私が言うことには大抵反論しないと気が済まない性格なので、その時もそれだと思っていた。

しかし考えてみれば母親は、突然訪ねてくる見知らぬ訪問販売員から、よく品物を買っていた。
幹線道路沿いの家なので、訪問販売員はやたらと来ていた。
よく覚えているのがブリタニカ百科事典。
分厚いのが何十冊も、金属の本棚に並んでいた。
ソファータイプの肩もみ器や、ぶら下がり健康器もあった。
当時は農作業と年寄りの世話と家事ばかりで父親はかまってくれないし、近所の人と気晴らしにおしゃべりをすることもなかった。
そんな母親は訪問販売員から 「奥さんも大変ですね~」 などと話しかけられるだけで、嬉しくて舞い上がってしまい容易い鴨だった。

 


妹は冷蔵庫から自由に玉子を出して食べていたが、私にはそれは出来ないことだった。

 

友人宅に遊びに行けば、いつもお菓子を出してもらっていた。

その子が珍しく家に遊びに来た時に、母親がいなかったので勝手に戸棚にあった駄菓子を半分食べたらものすごく怒られた。
キノコの形をした、表面が砂糖でコーティングしてある袋菓子だった。

 

妹は好き勝手にやりたいことをやり、自由に生きていた。
私は母親のストレスのはけ口になり「お前はダメだ、お前が悪い」と言われ続け、母親の顔色を伺って必要な物さえほしいと言えずに暮らしていた。

貧乏な生活をしてたのは、私だけだったのかもしれない。